みちすがら

寄り道、近道、回り道

新しいことを始めるというデッドロック

『新しいことを始めたい』『新しいことを始めよう』そんな言葉は割とよく気がするが、『新しいことを始める』ことはなかなか難しい。

僕という個人は最近、ダンスラというゲームをやってみたいなぁ、と思っている。今日も趣味の一つ(?)であるゲームセンターをぶらぶらする活動をしていた時に、ダンスラを見かけてやってみたいなぁ、なんて思いながら決してやることはなく筐体の横を通り過ぎていった。

僕がダンスラをやりたいと思いつつ、しかし、実際にはやらないのは、率直に言えば恥ずかしいからだ。ダンスラというゲームをやっている風景を見ていると、ダンスが好きな人たちがダンスをする場所を求めてゲームセンターにたどり着くことで人が集まっているように思える。つまり、そのゲームをやっている人はすでにダンスができる人であることが多い。僕にとっては新しいことであるダンスは彼らにとっては新しいことではない。とにかく、僕にはそんな人たちの間に割って入り、へたくそなダンスを晒す勇気は全くない。馬鹿にされるんじゃないか、笑われるんじゃないか、そんなことばかりが頭をよぎる。だから僕はダンスラやってみたいな、と思いつつ実際にはやらずに通り過ぎていくのだ。

これはスケボーについても全く同じである。僕はスケボーを自分の一つの趣味だと思ってはいるが、人前で滑るのは結構恥ずかしいと思っている。だから、なるべく音がならないようにスケボーをチューンアップして、人の目がない深夜になるべく凸凹していない道路を探して滑るようにしているのだ。

まぁ、実際にやっている人に聞くと、へたくそでも別に気にしない、とか、もっといろんな人に楽しさを知ってほしい、とか暖かいことを言ってくれることも多く、自分の不安は杞憂であることが多いことも知っている。自分ももしもテニスをやりたいけど自分なんかが、と思っている人がいればそんなこと気にすることはないよ、と言ってしまう気がする。

前置きが長くなってしまったけれど、結局のところ言いたいことは、『新しいことを始める』ということにはデッドロックのような状況が存在しているということだ。新しいことを始めたいけど、それをやるためにはすでにそれができていなければいけない。つまり、新しいことを始めるためには、それがすでに新しいことではない必要があるという矛盾した構造が結構あるということだ。

そうだね、だから?と問われると、『いや別にそんだけ』という応答をすることになるんだけれど、なんでこのデッドロックが生まれるんだろうか、と素朴に思う。自分が日本人だから、変に気にしすぎているだけなのか。それとも、どの文化の人も同じくらいの強度でこの悩みを抱えているのか。それとも、自分が興味を持つ世界がたまたまそういう色が強いものなのか(ダンスラとかスケートボードとか)。

あと、『新しいことを始める』ということはこんなに苦しさと隣り合わせなのに、どうしてこんなにも『新しいことをしたい』とみんなが考えているように見えるのだろうか。みんなストイックというか、マゾなんだろうか。

斯くいう自分も『新しいことをしたい病』を抱える一人なわけではあるが…。

ボロボロの心にしみる小さな反抗

毎日生きていても、そんなにいいことはない。
良いことばかりの人生なんてきっと嘘だろうから、きっとちゃんと生きているからこんなに苦しいんだと思う。
だから、いいことがないことは構わない。仕方ないと思う。

でも、やっぱり苦しいことには変わらない。
「仕方ない」と思えても、「ちゃんと生きている証拠」と意味づけられても苦しいものは苦しい。

少し前の自分には、こんなに苦しんでいるんだという話をすれば、信仰心がないからだとか、祈ればよくなるだとかそんなことを言ってくる人しか周りにいなかったから、自分の中に苦しさは溜めておくしかなかった。
だけど、今は周りに苦しいと伝えることができる人が何人かいてくれる。
それが自分にとっては大きな救いだと思う。

さっき、自分を認めてくれない社会に腹が立って、小さな反抗をしてみた。
社会が自分を認めてくれないのは、自分が大したことがない人間だからであって社会は何も悪くない。
身の程くらいはわかっているつもりだから、これは自分勝手な逆恨みなのだ。
だけど、ちょっとくらい反抗したっていいじゃないか。
自分しか気づかないような小さな反抗くらい。

そんな気持ちで、深夜の道路の真ん中を歩いてみた。
しかも、ちゃんと接近してくる車に気づけるように、右側通行を守りながら。
本当に小さな反抗で、改めて書いてみると、少し笑える。

でも、それでも、こんなに小さな反抗でも、すごく気持ちよかった。
イヤホンから流れてくるエレカシがすごく心地よくって。
小さな声で「さぁ、がんばろうぜ」なんて口ずさんだりしてた。

明日もきっといいことなんて全然ない。
でも、別に構わない。
とりあえず、明日もがんばってみる。
きっと、いっぱいさぼってしまうんだろうけど、自分なりにやってみる。

「さぁ、がんばろうぜ」

「死」というメッセージ

社会において重要な問題はなんなのか。
或る問題は、社会にとって非常に深刻な問題だ。
なぜなら、それが原因で人がたくさん死んでいるからだ。
こんな問題の設定の仕方をしていると、苦しんでいる人にとって死ぬことがその苦しみを社会に理解してもらうための方法である、という考え方が広がってしまう気がする。
その人は、自分の苦しみを理解してほしくて死を選ぶのに、社会がその人の苦しみに寄り添おうとしたときには、もうその人はいない。
そんなの悲しすぎる。

或る問題が深刻だから人がそれによって死を選ぶのであって、多くの人がそれによって死んでいるからその問題が深刻なのではない。
あの人が死を選ぶ前に、あの人が抱える苦しみの深刻さに気づき、それを取り除かなければいけない。

「死にたい」という人は、ほんとうに死にたいわけではないことが多い。
ほんとうに死にたい人はきっと、「死にたい」という言葉を冗談にできない。

この文章は、沈黙と「死にたい」の間くらいにあると思う。

麻酔はじわじわと効いていく

 

「ストレス耐性は強いほうですか?」
就職活動をしていると、たまにこんなことを訊かれる。
ぼくは自分ではストレスへの耐性がつよいと思っているので、この質問にはいつも「はい」と返事をしたうえで、それを証拠付けるストーリーを語る。

その時に語られるのは、大学院のゼミでの話だ。
自分がいつも書いてゼミの議論の場に持っていくのは、本当にどうしようもない研究の計画。自分でもそれをわかっているし、周りの人はきっともっとわかっていると思う。だから、ゼミではいつも厳しいことを言われる。周りのひとは、自分の研究をよりよくしようと思っているというよりは、何か粗を探して貶めようとしているんじゃないだろうかと思うほどに厳しい言葉が飛んでくる。
「あんなに言われて、大丈夫だった?」と心配してくれる人もいるのだが、当のぼくはそれほど気にしていない。
だから、自分は結構ストレスに耐性があるんだろう、と思ってきた。

でも、それはもしかしたら勘違いかもしれない、と思うようになった。
それはまるで麻酔を打たれた時のように、ただ自分が傷を負っていることに気づいていないだけなのかもしれない、と最近は思うようになった。

他者から自分に向けられる言葉はすべて、自分によく似た、けれども自分ではない人形のような何かに向けられていて、自分には届いていない。
だから、自分は傷つかない。
そんな風に今まで自分は思ってきたけど、この人形は実は人形なんかではなくて、自分自身だったんだと思う。
麻酔によって自分の身体が自分の一部じゃないような感覚が広がっていく中で、それが自分の身体だということをきっと自分は忘れてしまっていたんだ。

麻酔はじわじわと効いていき、気が付けば身体はもうボロボロだ。
痛みに気づかなければ、身体は回復しようとも思えない。

いつかこの痛みを大切なものだと思えるようになることを願いながら、痛みを取り戻す決意をしよう。

国際教養大学―就職予備校から「就職予備校」へ

最近、教育と仕事の接続に関する本を読んでみているのですが、とても面白いです。何でしょうか、痒い所に手が届くというか。なんというか、アクション映画を観ているかのような爽快感があります。

 

そんな中で、「就職活動」や「働く」ということ、「学校と仕事」の関係について、考え方が変わってきたのを感じています。本田由紀さんの本ばかり読んでいるので、ものの見方にめちゃくちゃ偏りがあることは自覚しているのですが、その点の改善は今後の課題にします。そのうえで、ちょっと思ったことを書こうと思います。

 

本田さんの本の言葉を借りると、僕は大学に在学中「教育に職業的意義は不要だ」という立場、特に「教育が仕事に役立つ必要はない、教育はもっと高尚な、人格を形成し教養を高めるためのもの、あるいは一般的・基礎的な知力や柔軟な『人間力』を養うためのものだ」という立場に重心があったように思います。

ですが、現実として教育の構造と社会構造が対応していない中で、教育の世界から仕事の世界に出て仕事をしなければいけない現実を考えれば、高等教育においても職業能力を養成することの重要性は認めざるを得ない、というか、もっと職業能力を学生に与えることができるような教育が求められていると考えるようになりました。つまりは、在学中は就職予備校と国際教養大学のことを「陰に陰に」散々揶揄してきた僕ですが、「職業能力を身に着けた者を輩出する機関」という意味での「就職予備校」であれば、それを擁護する立場に立つこともやぶさかではなくなったというわけです(ただ、この場合「就職予備校」という呼び方は全く適切であるとは思いませんし、学生に内定を与えることを第一義的な目標とするような機関としての就職予備校として大学が機能することに対しては、依然として断固反発しますが)。そのうえで、国際教養大学を見返してみると案外、前向きに評価できる部分はあることに気が付きました。以下では、その点についていくつか述べてみようと思います。

 

本田さんは「教育の職業的意義」(ちくま新書)のなかで、「仕事の世界への準備として欠かせないもの」について、2つのことを挙げています。それは、「第一に、働く者すべてが身に着けておくべき、労働に関する基本的な知識であり、第二に、個々の職業分野に即した知識やスキル」だといいます。そして、それぞれについて「前者は、働かせる側の圧倒的に大きな力、(中略)に対して、働く側がただ翻弄されるのではなく、法律や交渉などの適切な手段を通じて〈抵抗〉するための手段であり、後者は働く側が仕事の世界からの要請に〈適応〉するための手段である」と述べています。

このそれぞれの観点から、国際教養大学はどのように見ることができるでしょうか。まず、〈適応〉のための能力について考えてみると、国際教養大学での教育は評価できる部分はあるのかな、と感じます。この、〈適応〉のための能力には、仕事と対応するような専門性が含まれるであろうと僕は解釈しているのですが、国際教養大学にはその専門性として「英語運用能力」があるだろう、と思います(それ以外で専門性とみなすことができる要素があるとは僕には思えませんでした)。僕は在学中、「英語力」を高等教育機関が学生に与える専門性としてみなすことに抵抗を持っており、「大学は英語塾じゃないぞ」と反発していたのですが、職業能力という観点から捉え直せば、英語力は立派な専門性になり得ます。実際に、一定数の企業の方は英語力を目当てに国際教養大学の学生を採用しているだろうし、一定数の先輩方は英語を用いる「専門職」(ここでは、英語能力を専門的な能力とみなした上で、こうした仕事を鍵括弧付きの「専門職」と呼んでいます)についているでしょう(ただ、卒論のゼミで、OBOGにメールを送ってアンケート調査をしている方がいましたが、自分が思っていたよりは卒業生は英語を仕事で使っていないな、と感じた記憶があります)。

 

では、〈抵抗〉するための能力はどうでしょう。この点について、国際教養大学は〈抵抗〉のための職業能力を養成することはできていないと僕は思っています。ただ、これは国際教養大学だけの問題というよりは、日本の学校教育全体の問題です(〈適応〉の能力の養成も日本の学校教育全体の問題です)。本田さんは、先ほど紹介した本の中で、日本の若年労働者の〈抵抗〉の能力に関して、「十分に形成されているかどうかは疑わしい」とし、いくつかのデータを紹介しています。そのうちの一つが、NPOPOSSE2008年に実施した「若者の「仕事」調査」の結果であり、それによると回答者の半数以上が「職場で違法な処遇を経験」したことがあると答えたそうです。さらに、そうした違法な処遇への対処に関する質問に対しては、大半が「何もしなかった」と回答しており、その理由として「その他」以外で最も多かったのは「是正できると思わなかった」で、その次が「その時は違法だとわからなかった」であったといいます(もうすこし詳しいデータについては、本田さんの「教育の職業的意義」を読んでみるか、もっと詳細に知りたければPOSSEの調査を参照してください)。こうした調査の結果を踏まえて、本田さんは、日本の若い労働者たちは「労働者として何をどこまで正当に要求し得るかについての知識を欠いた無防備の状態のまま、厳しい労働市場にさらされているのである」と結論付けています。

 

ここで指摘されているように、「正当な働き方とはどのようなことか」についての知識や意識が希薄であるということについては、国際教養大学の学生や卒業生も例外ではないだろうと、僕は思います。このような問題を乗り越え、就職予備校、国際教養大学が職業能力を養成することができる「就職予備校」へと変わるために、まずは「正当な働き方とは何か」について学生同士で議論等をしてみてはいかがでしょうか。

「区切りをつけない」というライフハック

最近は勉強に割と取り組めていると思っていたんですが、今日は勉強に身が入らず、DTMばかりしていました。気づいたら4時間くらいDTMをしていました。

で、なんでかなと思い返したんですが、昨日に最近読んでいた本を読み終わってしまったことが原因かな、と気気づきました。何かが終わった瞬間というのは、とても重要だなぁ、と身につまされました。僕はきっと、昨日までの区切りで一度集中の糸が緩んでしまったんですね。その糸をもう一度張りなおすためには、新しいことを始めればいいわけなんですが、僕の場合それがわかっていながら、新しいことを始めるのが億劫で、なかなか始められません。こう言うときは、心を鬼にしないといけませんね。

早速、新しい本を読み始めようと思います。

それにしても、台風すごいなぁ…。