みちすがら

寄り道、近道、回り道

優しさと冷たさの表裏一体の関係

最近の自分は、ぼーっとしている。
いつもではない、仕事をしているとき、特にぼーっとしてしまう。
やらなければいけないことを精一杯こなしているけれど、仕事に心から向き合えない。

自分のやりたいと思うことはこれではない。
自分が本当にやりたいと思えることを仕事にできるまで、この仕事でつなぐ、そんな気持ちにどうしてもなってしまっている。

自分は、何か「作品」と呼べるようなものを生み出すことを仕事にしたい、と最近はずっと考えている。
それは、絵でも動画でも、どちらでもいい。

一番自分にとって望ましいのは、絵を仕事にすること。
だからずっと、絵の練習をしている。

現実的だと感じているのは、動画の編集技術を身に着けること。
だから、動画制作にも取り組むことにした。

そんな自分が考えるのは、どうしてもっと高校生や大学生のころに、いや、もっと前から絵の練習をずっとしてこなかったんだろうか、ということ。

自分は選択をずっと間違えてきたんだとどうしても思ってしまう。
大学選択も、もっと視野を広げて悩むべきだった。
普通の選択肢じゃないから、と自分のやりたいことを遠ざけるべきでなかった。
学歴へのこだわりもあり、大学院へも進学した。
2年間かけて、拙いけれど納得できる論文を書けたと思う。

でも、仕事を始めて思う。
今までやってきたことは今の生活にはこれっぽっちも関係ないし、関係があったとしてもごくごく些細なこと。
今までやってきたことをやっていない自分でも同じようにやれたし、もしかしたら今よりもっとうまくやれてるのかもしれないとさえ思う。

どうしても、あの時ああしていれば、と考えてしまう。

 

昨日、それを先輩に話した。会社のではなく、学生時代の。
先輩は言う、「ないものねだりの人生だな」と。

ぼくもそう思う。
もしかしたら、今自分がそうしていればと思う自分を生きていたとしたら、その時の僕はもしかしたら今の自分の生活をあこがれとして語っていたかもしれない。

でも、そうでないかもしれないともやっぱり思うし、どちらもただの可能性という点では同じだと思う。


ないものねだりをしても仕方がないことを、僕もわかっている。
だから、せめて、今から作れる将来を、自分の納得のいくものにしたいと思って、絵の練習や動画作成に取り組んでいる。

自分はただ、共感や同調をしてほしかっただけだった。
だから、先輩を冷たいと少し思ってしまった。

 

でも、それが先輩の優しさだということもわかっている。
自分がやりたいと感じていることの無謀さを理解しているし、半端に同調して、共感して、自分を調子に乗らせて、生半可にそちらに進ませることは僕を破滅させることになるからこそ、冷静な言葉をくれたのだということもわかる。

自分のことをちゃんとわかっているからこそ、そう伝えてくれているんだと思う。

 

やはり、こういう自分の未来像は、なりたい、というレベルで話をするのはあまりいいことはない。同じような集団であればお互いに加熱しあえるかもしれないが、そうでない場所では言わないほうがいい。

聞く側は損しかしないし、自分も大体損をする。

合計値がマイナスになるゼロサムですらないやり取りになる。

 

こういうことは、やりたい、というレベルではなく、やった、という時点で初めて口に出せるものなんだと思う。

 

今度はちゃんと、「こんなことをすることになりました」という形で報告して、「そうなんだ、がんばれよ」と言ってもらえるようにしたい。

 

そんなことを思った。