みちすがら

寄り道、近道、回り道

今の気持ちを忘れてはいけない気がする、今はそんな気持ちです。

昨日、自分のこれからについて考えた。

今のままの場所で今のまま生きていていいのだろうか、今のまま生きたこの先に自分はどうなるのか。

自分にそう思わせたのは、にじさんじ甲子園という企画だった。

その企画を見終えた自分の中にあったのは、お祭りが終わった後の寂しさと似ているけれど、少し違った寂しさだった。

言語化しようとするとそれは、「どうして自分はこちら側にいるんだろうか」という感覚だった。

企画を運営していた側の人たちが、充実感を中でお互いをたたえあう姿に涙が出そうになったのは、良い時間を過ごせたことの感動からではなく、自分がみていることしかできないことの悔しさからだった。

自分がどんな人間なのか、それを言葉で規定するのは嫌いだった。

自分はこれまでそれを避けてきた。

その理由を明確に言葉にすることは難しいけれど、自分はこういう人間だという周りの人たちがどこか嘘くさく見えたからだと思う。

自分には彼らの姿が、どこか焦りと強迫を帯びた、自己催眠に必死になっているように見えたし、彼らが語る自分像がどこかから借りてきたものに見えていたからだ。

自分はそれをしてこない代わりに、自分はこうではない、という形で自分を規定してきたと思う。

その結果、自分の中には何もない、そんな風に感じてしまっている。

 

だから昨日、自分の将来について考えた。

自分は、人を楽しませることが好きなんだと思う。

今振り返ると恥ずかしいけれど、小学生のころ、恥ずかしげもなく、よく周りの人に対して意識的に笑うようにしていたことを、これを考えるときいつも思い出す。

仕事も、誰かを楽しませることがしたいし、それができないのなら、それを支える仕事がしたい。

誰かに楽しませてもらう側にいるだけの自分はすごく嫌だと感じている。

 

自分にどんな形で、そのなりたい自分に近づくことができるのか、それを考えた時、今の自分が一番やりたいことは、絵を描くことだと思った。自分の描くイラストで人を楽しませたい。

だから、絵を描く練習を本気でやろうと決めて、今日もデッサンの練習に取り組んだ。

でも、描けたものはあまりにも稚拙で、下手で、がっかりした。

 

こんなものも正確に描くことができないのか、と悲しくなった。

自分がなりたいものは、あまりにも遠くにあり、あきらめてしまいそうになる。

 

文章の着地点を見失ってしまったけれど、やっぱりあきらめたくない。

無様な自分が情けなくて、目も当てられないと思うけれど、まずは無様な自分のことをちゃんと見ることから始めたい。

かっこ悪い自分のことを、キチンとかっこ悪いと認めて、そのつらさに耐えながら、進んでいかなきゃいけないと思う。

 

今やろうと思っていることは、携帯のメモに書いてある。

そこに書いたことは全部ちゃんとやる。

 

やると言ったらやる、そういう人になる。

やれそうなことしかやるといわない人ではなくて、無謀なことでもやると言ったらやる人でありたい。

 

今の仕事には、あまり熱くなりたくない、お金がもらえるからやっている、自分はそれでいいと思っている。バイトと変わらないと思っている。

その分、自分がやりたいことに時間を使えるように工夫するほうがいい。

 

僕はそう思う。