みちすがら

寄り道、近道、回り道

さよならのあとの後悔

遅くまでゲームをしてしまった夜、自分自身に呆れながら部屋を出てリビングに行くと、我が家の小さな家族、ダックスフントの彼が寂しそうに上目がちな視線を僕に送っていた。早く寝なければいけないはずなのに、どうにも放っておけなくて、近づいて体を撫でてやることにした。

僕が近づくと彼はいつものように仰向けに寝転がりきれいな白いお腹を僕に見せびらかした。僕は彼がそうするときはいつも、前足の付け根を掻いてやることにしている。なんとなく、どうせ掻いてやるなら彼が自分では手の届かなさそうなところがいいだろうと思ってのことだ。

僕とダックスの彼だけがリビングにたたずんでいた。僕が彼を撫でているあいだ、彼はとても静かだった。本当は何を考えているのか知る方法はないけれど、彼は気持ちよさそうにしていた。いつも撫でているときはあえて考えもしなかったけれど、僕の目の前のこの小さな家族は、今でも小さいけれど、もうずいぶん大きくなった。この間まで子犬だったはずの彼は、気が付けばもうすでに大人になっていて、人間にしたらきっと僕よりも大人なはずだ。

彼の成長に関心していた僕は何気なくまばたきをしたのだが、不安は僕のその隙を見逃さなかった。いつの間にか、僕の心はすっかり不安に捉えられてしまった。閉じる前の僕の目は小さな彼の大きな生命力を確かに見ていたはずなのに、開いた目に映ったのは小さな命の短い終わりだった。

この目の前の小さな彼は、きっと僕よりも早く死んでしまうはずだ。僕はきっと近い将来に彼の終わりを経験することになるのだろう。その時に、彼にさよならを告げるときに、僕の心にはどんな思いがあるのだろうか。きっとそれは後悔だ。もっと撫でてやればよかった。もっと遊んでやればよかったと後悔するに違いないのだ。だって、別れのあとの僕はいつだってそうだったから。

後悔、という言葉に触れるとき、僕の頭にはひとつの光景が浮かび上がる。僕はリビングで食卓についていて、僕の向かいには祖母が座っている。僕の頭の中の祖母は、とても衰弱していて、歩くこともままならない。僕にとって祖母の記憶のほとんどは、年齢を感じさせないほどに元気で頑固な祖母のはずなのに、不思議と僕が祖母を思い浮かべるときは大体、亡くなってしまう少し前の衰弱しきった祖母を想像してしまう。食卓で祖母を見つめる僕の中を満たしていたのは、圧倒的な後悔と罪の意識だった。自分は祖母に何かしてあげられたのだろうか。もっとしてあげられることがあったのではないか。そんなことを考えてしまっていた。そうして祖母が亡くなってから僕は、さよならのあとの後悔のことが頭から離れなくなってしまった。

だからきっと、僕はこの目の前の小さな家族にさよならを言ったあとにも、後悔をしてしまうに違いないのだろう。僕にはこの悲しみや苦しさとどう付き合っていけばいいのか、まだわからないけれど、悲しみは喜びと同じようにとても美しいものだと思うから、いつまでも、決して別れとその悲しみに慣れてしまうことなく、大事な別れを大事な別れのままに心から悲しんで心から後悔していきたい、とそう思う。