みちすがら

寄り道、近道、回り道

なぜ、大学での学問は空虚なのか

これは僕の私見であって、異論はいくらでも認めるのだが、僕は大学での学問が多くの人にとって空虚なものであると半ば決めつけている。なぜ僕がそんな風に決めつけるのか、それをここでは書いていきたい。

文部科学省の資料を見てみると平成25年の時点で、18歳人口に占める大学と短大の進学率は55%を上回っており、18歳の2人に1人は大学もしくは短大に進学しているらしいことになる。(出典:文部科学省「学校基本調査」(平成25年度は速報値))これだけ多くの人が、大学で学問を学んでいる現実があるわけだが、大学で学ぶことというのは、これだけの人にとって本当に必要なことなのだろうか。

それを考えるためには、教育と仕事という2つの社会的領域の関係を見てみる必要があるだろう。ブードンによれば、教育の領域において個人が占めることができる位置の構造と、職業の領域におけるそれは、相互に異なっており、教育における位置を増やしても、それに対応した社会的な位置が増えるわけではない。すなわち、高等教育の定員を増やしたとしても、高等教育に対応した職業の数が同様に増えるわけではない、ということである。

日本の状況を見てみると、日本では先ほど示したように、大学進学率がかなり上昇している。そして、ここでは厳密なデータなどを示すことはできないが、おそらくここに示した大学進学率は、すでに高等教育と対応した職業の数を大幅に超えていることであろう。つまり、高等教育を受けているものにとって、それと対応する職に就くことは、椅子の数が極端に少ない椅子取りゲームに参加しているようなものなのだ。そして、こうした教育と職業という社会的領域の間の構造的な差異こそが、多くの大学生にとって大学での学問が空虚なものになってしまうことが避けがたいことの背景にはある。

ただ、ここまで述べてきたことは別段変わったことではなく、当然のことなので、僕がわざわざ言わなくてもいいことだと思う。そこで、僕が少し言葉を足しておきたいのは、なぜ大学での学問が空虚なものになることがある程度自明であるにもかかわらず、それでも多くの人が大学に行かねばならないのか、ということである。

この点についてもありふれた回答しか用意していないのだが、これは企業の採用のあり方に問題があるからである。本田由紀さんによれば、日本において新規学卒者の就職というのは、学校という組織と企業という組織の間で人がやり取りされる、という側面が強く、実際に就職をする個人があまり前面には出てこない。大卒者の就職活動については大学による関与というのはそれほど強くはないかもしれないが、それでもある程度大学のコネなどが就職を左右する場面はある(僕の大学では「大学フロー」なるものが存在しており、完全に大学が企業に人を斡旋するという形で就職活動が行われていた)。

また、高卒者と大卒者では就職活動における処遇は全く別のものであろうが、両者に職業能力の点で大きな違いがあるわけではないだろう。つまり、本来ならば大学を出ていなくても座れるはずの椅子に、大卒の学位を求めているのだ。そのため、これも学校という組織が人々が就く職を(それほど合理的ではない形で)左右していることの例であるように思われる。

本田さん曰く、こうした組織が中心になり、個人の職業能力などが後景に退くような、教育と仕事の間の移行の慣行が続いたことによって、日本の教育の中では、職業能力を発達させようという発想が育ってこなかった。しかし、1990年代半ば以降、そうした教育の在り方とは裏腹に、採用のあり方だけが一方的に変わりはじめ、教育と仕事の間の接続に支障をきたしている。このままだと、学校を卒業したのにどこにも行く場所もないし、能力もない、そうした多くの若い犠牲者が生み出されてしまうかもしれない。

こうした問題を解決するためには、本田さんの言うように、職業能力を基準とした採用のあり方への移行と、教育において職業能力を高めるような教育改革を並行して行っていくことが必要になるだろう。それに関連して、学校が一挙に担ってきた能力資格証明の付与の役割も、それらの内容・項目に応じて再分化する必要があるかもしれない。

大学で学問に取り組む人は減るだろうが、学校がもっと個々人にとって意味のあるものになるといいな、と思う。