みちすがら

寄り道、近道、回り道

カチ、カチ、カチ

カチ、カチ、カチ。

時計の秒針が時間の流れを知らせてくれる。

一秒一秒、その音がするたびに喉と胸の間を少しずつ締め付けられているような、そんな苦しみがやってくる。その音は、僕が何をしていようと残酷に時間は通り過ぎていくという単純な事実を僕に思い知らせる。その音がするたびに、僕の前に広がる道が少しずつ崩れ去っていくような、自分の足元が崩れ落ちていくような、そんな気がしてならない。戻ることも、進むこともできない。この苦しみから逃げ出したいけれど、消えることさえできない。ただただ何もできずにじわじわと、ゆっくり、静かに僕は殺されていく。

あの音は、そんな恐怖を僕に与える。

 

人生はよく道に例えられる。けれど僕は、それは少し違うと思う。きっと人生は、空港や駅なんかでときどき見かける、平らなエスカレーターと似ている。人生が道なら、自分が進む道は自分で決めることが出来るけれど、自分が進む方向さえ自分で決めることは難しいのが現実だ。エスカレーターは一度乗ってしまえば、目的地にたどり着くまで降りることはできない。何もできずに流される自分の横では、歩いていればたどり着いたかもしれない、けれど今はもう決してたどり着けない風景が流れていく。そして、人生というこのエスカレーターの一番恐ろしいところは、気が付いたときには人は殆どもうすでに乗せられてしまっている、ということだ。自分で乗ることを選ぶことはほとんどできないのだ。

乗りたくなかったエスカレーターに乗ってしまったことを後悔しないためには、注意深く観察して、自分が乗せられそうになっていることに気が付かなければいけない。自分が生きる一日に対して投げやりな選択をしてはいけない。遠回りに思うかもしれないけれど、自分の脚を使って歩くという選択肢を選ばなければいけない。

そして、もうすでにエスカレーターに乗ってしまった人は勇気を持たなければいけない。エスカレーターの手すりを越えて、その向こう側へ降り立つ勇気を。しばらく流されていたせいで、きみの脚は歩くには心ぼそいかもしれない。けれど、それでも歩かなければいけない。流されながら静かにゆっくりと死んでいくよりも、一歩でも自分で歩いて息絶える方がよっぽどいいじゃないか。