みちすがら

寄り道、近道、回り道

昔の手帳に書かれたこと

去年の手帳を見つけました。

「あぁ、せっかく買ったけどあんまり上手に使えなかったなぁ」なんて想いながら手帳を開いてみると、白紙のページが多いのですが、その中に1ページ、紙の上の枠とかを一切無視して書きなぐられている言葉がありました。

過去の自分が書いたその言葉が素敵な気がして、ここにメモをしておこうと思います。

 

「在る」とは「無い」ということ。

「在る」の後ろには常に「無い」がある。

「在るもの」を想うことは、「無いもの」を想うこと。

だから、在るものを想うとき、悲しみがどこかにある。

でも、無いものを思うときはどこかほんのりとあたたかい。

不思議なぬくもりがどこかにある。

 

という内容でした。
「在る」の後には常に「無い」がある。
というのは、ハイデガーのいうことと重ね合わせると、現存在としての人間が抱えている3つの「無」のうちの一つと似ているな、と思いました。

ハイデガーによると、人間は、未来、現在、過去それぞれに対応する「無」を抱えています。過去を見れば人間は気が付いたときにはすでに現に存在していた存在です。それ故に人間の存在に理由や目的、原因は知り得ないことになり、ここに人間という存在の「無根拠性」があらわれます。現在においては、人間は道具連関の中に組み込まれており、その中での人間は代替可能な(誰でもないが、誰でもよい)「ダス・マン」としてしか存在していない。即ち、ぜんざいにおける人間の存在は「非本来的」な状態になってしまいます。そして、将来に目を向ければ誰もが必ず死に絶え、消滅し「非存在」となることは避けられません。

昔の自分は別にそんなことを考えていたわけではないと思いますが、なんとなく言葉が哲学めいていて面白いなと思いました。過去の自分の書いたものとかを読み返すのも面白いですね。

 

ではでは。

 

P.S.

今日、一日経って気が付いたんですが、過去の自分の投稿はハイデガーの考えと似ているなと感じたんですが、今日改めて思うとアリストテレスの考えとも似ている気がしまいた。つまり、「在るもの」は可能態として「無いもの」を含むのではないか、ということでした。「在る」ということが常に「無くなる」という可能性と離れがたく結びついているし、必ずいつか無くなるという意味でそれは必然的な可能性です。

そんなことを思いました。