みちすがら

寄り道、近道、回り道

「JOKER」という映画(見たわけではない)

僕はジョーカーを見たわけではないのですけれど、犯罪行為について社会的な要因に目を配りつつ描くというのは基本的に望ましいことだと思っています。なぜなら、犯罪に対して、あいつは根っこが悪人だから悪いことをしてしまうんだというような本質主義的な理解がなされるよりは遥かにいいと思うからです。誰もそんな風には考えていないと思う人もいるかもしれませんが、僕が日本で生きている感覚として、例えば前科がある人に対する視線がとても冷たいだとか、犯罪に対する本質主義的な見方というのは結構見られるような気がします。ただ、どんな犯罪を犯しても法的な罰さえ受ければその罪をなかったことにしてもいいのかと言われると、そうでもないような気がするので、僕としてはその中間に自分がいるのだと思っています。話が逸れてしまいましたが、とにかくここで僕が言いたいことは、ジョーカーという映画における犯罪行為の描き方を僕がどちらかといえば肯定的に評価しているということです。

 

なので、そうした表現の仕方に対する批判はとても興味深いと思いました。具体的には、犯罪行為についてその社会的な背景を強調することで犯罪行為を正当化しているのではないか、という批判です。その他にも、そうした批判に人種やジェンダーを絡めた批評も見かけました。僕は人種もジェンダーも勉強不足なのでよくわからなかったのが正直なところなんですが、この批判について僕の理解をまとめてみます。まず、アメリカの社会でもっとも支配的な集団が白人の男性であり、彼らは社会のいろんな場面で強い存在として描かれてきました。彼らが強い存在であるというのはもはや社会の規範の一角を成しています。しかしながら、彼らの中にも社会的な弱者というのは当然いるわけです。そうした社会的に弱い立場の白人男性の中には、本当は強いはずの俺たちがなぜこんなに弱い立場でいなければいけないんだと納得できない人がいます。こんなはずじゃない、こんなのはおかしいと思う人がいるわけです。そして、規範の上では強い存在であるはずなのに、現実においては極めて弱い存在である、という状況は当人にとっては大きなストレスであり、近年のアメリカ社会ではこうしたストレスが、大量殺人などの深刻な事件として現れています。先ほど触れたジェンダーや人種と絡めた批評の中では、こうした社会状況下で、社会的に弱い立場に置かれた白人男性という彼らが自身を投影しやすい対象を主人公に据えて、その主人公に大量殺人を行わせ、その上、その犯罪行為の責任を社会に押し付けて個人を免責する映画であるとして、ジョーカーを批判している訳です。なるほど、もしもジョーカーがそんな映画であれば、「オレもジョーカーのようにやっていいんだ」と勘違いする白人男性がもっと増えてしまうのかもしれませんし、そうなってしまえばそれは大変なことですね。

 

しかし、この批評にはいくつか問題があります。まず、根本的な問題は「犯罪行為についてその社会的な背景を強調することで犯罪行為を正当化している」という評価がジョーカーに当てはまるのか、という点です。たしかに、この文章の冒頭で述べたようにジョーカーでは、犯罪行為について背景にある社会的な要因に目を配りながら描こうとしています。しかし、社会的な要因に目を配ることと、社会のせいにすることは似ているようで別のことです。なるほど、ジョーカーの犯罪行為の背景には社会的な要因があったことでしょう。しかし、社会的な要因は行動を左右する一つの要因でしかありません。例えば、社会的に不利な立場に置かれている人は皆、ジョーカーのような行動を選ぶでしょうか。つまり、最悪の選択は彼自身によって行われたのであり、その責任は彼自身にあるのです。このことを理解すれば、社会的な背景に目を向けていることを理由に、この映画は犯罪の責任を社会に押し付けることで個人を免責している、という主張がおかしいことがわかるでしょう。そして、ジェンダーや人種に絡めた批評は基本的には、ジョーカーが個人を免責しているという点に根本的には依存しているため、自動的におかしな批判であることになります。(ジョーカーは確かに、社会的に弱者の立場に置かれた白人男性に大量殺人を行わせている映画であるものの、それを仕方がない行為としては描いていないことになるのですから。)この、社会的な要因に着目することと社会に帰責することの違いを看過してしまい、その結果ジョーカーを見て個人を免責していると感じる人が一定数出てくるのは仕方がないことです。ただし、それはそう感じた側の誤りであり、製作者側を批判するのはお門違いというものでしょう。

 

では、100歩譲ってジョーカーが社会的弱者によって行われる犯罪行為を仕方がないことであるとして正当化する映画であるとした場合はどうでしょうか。確かにこの場合は、社会的に弱い立場に置かれていることに大きなストレスを抱えている白人男性たちの背中を押すことになるのかもしれません。ただこの場合、主人公が白人であろうとなかろうと、男性であろうとなかろうと、ストレスを抱える彼らにこの映画が及ぼす影響というのはさほど変わらないのではないでしょうか。たとえば有色人種の男性が主人公であったとしても、弱い立場に置かれた男性が犯罪行為を行うのは仕方がないんだというメッセージを発することに変わりはなく、ストレスを抱える彼らは背中を押されるでしょう。これは主人公が有色人種の女性であってもそれほど大きくは変わらず、社会的な弱者は犯罪行為を行ってもそれは仕方がないんだ、と彼らには受け取られるでしょう。もちろん、白人の男性が主人公である場合に比べたら幾分か背中を押される白人男性は少ないのかもしれませんが、それほど大きな違いがあるように僕にはあまり思えません。それどころか、白人男性以外を主人公に据えるということは、さほどメリットがないように思えるだけではなく、場合によってはデメリットさえ生じるのではないかとさえ僕は思います。というのも、もしもこの映画の主人公を有色人種の女性にした場合、有色人種や女性が社会的弱者として描かれることになり、有色人種や女性に対するステレオタイプを再生産することになるのではないか、と思うからです。さて、このように改めて整理してみると、たとえジョーカーが犯罪行為を社会のせいにして個人を免責する作品であると仮定した場合でも、ジェンダーや人種に着目した批評はそれほど芯を食った批評ではないのでは、と僕は思ってしまいます。

 

ここまで、ジョーカーという映画に対して向けられている批判の紹介と、そうした批判に対する再批判を行なってきました。僕はこの映画を自分では見ていませんし、アメコミにも興味がないので今後見る予定もありませんが、よくも悪くも話題にはなっているようなので、興味のある方は見てみるのも良いのではないでしょうか。