みちすがら

寄り道、近道、回り道

ゆっくりとかわっていくこと

短時間で大きな変化を起こすためには、それだけ大きな力が必要だ、ということはこの世界では一つの道理です。化学変化でも、物理の運動でも、速くて大きな変化や運動にはそれだけ大きなエネルギーが要求されます。

それは特別なことでは全くなく、きっと世の中のほとんどの人が理解していることです。ただ、僕はそれをきちんと理解していなかったのだなと、この数日、折に触れて感じています。

僕はこれまで、自分自身を急激に変えようとばかりしていました。早起きが苦手なのに、次の朝から早く起きようと決めて実行する。苦手なことがあるから、それを一日も早く克服するために、他のことはそっちのけでひたすらそれだけをする。

その中のすべてがうまくいかなかったわけではありません。早起きにしても、意外に次の朝は予定通りに起きれたし、ほかのことをそっちのけで時間を割いた苦手なことは、短い時間の割りに上達したような気もします。

ただ、そうしたすべての急激な変化への試みはやはり、その遂行に膨大なエネルギーを必要としていました。体力はもちろん、精神力や忍耐力、集中力など、かなりの力を要していたと思います。そして、当然のことですが、そうしたエネルギーは無尽蔵ではありません。僕の場合は体力には比較的自信があるのでこれまで肉体的な疲労感に打ちのめされたようなエピソードは殆ど思いつかないのですが、それ以外は人並みです。そのせいで、先に紹介したような試みや挑戦というのはあまり長続きはしませんでした。

今思えば、こんなにも単純な話なのですが、それを自覚したのは実は本当に最近のことです。最近までの、僕の僕自身の失敗に対する認知の在り方は「なんとなく理由がわからないけれど、長続きしなかった」という程度でした。考えたとしても、漠然と「自分には根性がないのだろうか」とか、「意志が弱いのか」とか、その程度のことでした。そして、このような考え方は、自分自身を責めることにつながり、自己肯定感や自信を損なうことになり、僕の経験上あまりいいことはありません。

もちろん、ある意味で「根性」とか「意志」に着目する見方は正しいとも思います。ただ、それらが「足りない」とか「弱い」からまずい、という考え方には問題があるとかんげるようになりました。そうではなくて、やろうとしているプランが「根性」や「意志」を含む「自分が持つエネルギー」に合っていないと考えるべきなのではないか、と思うのです。つまり、自分のエネルギーのなさを責めるよりも、考え直すべきは計画のほうなのです。

僕だけかもしれませんが、生活習慣を変えようと思うとき、ひとっとびで理想にたどり着こうとして計画を立ててしまいがちです。ただ、おおよその場合そんな計画は実現不可能でした。それは、そうした計画はほとんどの場合、自分のエネルギーとマッチしていない計画になってしまうからです。本当に大切なことは少しずつ時間をかけた変化を計画することなのです。

とはいえ、自分のエネルギーに適した計画をする、ということは簡単ではありません。こんなことを言っている僕も、全くできません。きっと、これからも何かに挑戦する時には、ひとっとびで理想にたどりつけるような計画を立ててしまうと思います。そして、性懲りもなくどうしようもなく失敗ばかりするでしょう。ただ、これからの自分は決して、そうした失敗をそれを自分に根性がないから、とか、意志が弱いから、なんていう分析はしません。そうではなくて、「自分のエネルギーには合っていなかったな」と考えて、計画を修正します。その結果生まれる計画は、きっと初めの計画に較べたら、甘めの計画になるかもしれませんが、それでいいと思います。大事なことは「続ける」ことだからです。

ただ、僕は決して「自分のエネルギー」を増やす努力は無駄だとか、不要だとかそんなことを述べているわけではありません。最後に、その点に少し触れようと思います。僕は、生きていくことは基本的には「マラソン」だと思っています。ただ、ただのマラソンではなく、「練習をしながら走るマラソン」だと思うのです。

長い距離を走ろうと思った時、僕たちは基本的にペースの配分を考えて走ります。つまり、いくら理想的なタイムがあるとしてもそれを最重要と考えるのではなく、走り切ることを考えて自分の体力と相談しながら走るわけです。普通のマラソンはそれでいいと思います。なぜなら、それは数時間で終わってしまう営みであり、それは人間が変化するにはあまりにも短い時間だからです。

ただ、生きるということは違います。生きるというマラソンでは、僕らは走りながら同時に自分を成長させていくことができるだけの時間を与えられているのです。だから、僕たちは、自分の体力を自覚し、走り切ることを考えながらも、同時に体力を増やすことも考えることが求められているのだと思います。

最近になってようやく根性論を抜けだしつつある自分は、こんな風に考えられるようになったことで、少し生きるのが楽になりました。今年に入ってからは、自分に対しては肯定的に、失敗も自分を責め過ぎず、それよりも計画を見直すことや新しいやり方を試してみることを考えて生きてきました。その結果なのかはわかりませんが、最近はようやく歯車が少しずつかみ合ってきたような、そんな風に感じています。

本当に、どうしようもないくらい当たり前のことで、わざわざ文字にするまでもないことだと思うのですが、未来の自分がこの考え方を忘れてしまった時に、思い出させてあげるために、これを書きました。

ただ、密かに、自分と同じように自分を責め過ぎてしまう人の肩の荷が少しでも軽くなればいいな、そんな風にも思っています。