みちすがら

寄り道、近道、回り道

最近、新幹線のトラブルがおおい…

お恥ずかしながら、部屋にテレビもなければ新聞もとっていないので、新幹線の殺傷事件についてさっき知りました。

YouTubeでテレビの報道を見ていると、オリンピックを見越して日本の新幹線の安全保障の在り方を見直すべきなのではないか、という議論のされ方をしているようでした。

もちろん、それは議論すべき重要なポイントなのだと思いますが、「なぜ、犯人はこうした犯行に至ったのか」「その背景には、どのような社会的要因があったのか」という点にもう少し注意が集まってもよいのではないか、と思います。

テレビの報道の中では、犯人は発達障害のようなものを抱えていた、等とも言われていましたし、母親もコメントの中で、犯行を行った彼を自立支援施設に通わせていたというようなことが述べています。

この母親のコメントを最初に読んだときの感想は、「あまり好感の持てない内容だなぁ」という感じでした。というのも、僕には母親が「私は、私の手に負えないこの息子を、私はいつだってきちんと適切な場所に預けてきたし、居場所を作ってあげてきたのだから、私はやるべき役目はきちんと果たしていた、だから私は悪くない」と言っているように聞こえたからでした。

自分の子どもなのに厄介者扱いをして、常に自分から遠ざけて、誰かに押し付けてきたように見えるこの母親を、とても無責任だとはじめは思いました。今でも、無責任な母親だという感想はあまり変わらないのですが、母親のこの態度も決して理由のないものではないのだと思うので、今は複雑な心境です。

発達支援の子どもの養育が家族にとって少なからぬ負担であることは、当たり前のことだし、適当に調べてもいくつかの論文で指摘されていることなので、間違いないでしょう。きっとこの母親も、犯行に及んだ彼の養育にかなり苦労をしてきて、その結果がこのコメントなのだと思います。

障がいを抱える子どもを育てる不安や、負担から逃げてしまったように見える母親ですが、子どもに取って両親との関わりというのは最も重要な一つの要素であるので、こうした母親の行動はきっと少なからず、今回の事件と関わっているのでしょう。

もしかしたら、母親がそうした不安を抱えなければならなかった理由は、日本社会の障がい児を育てる家庭への支援の乏しさなのかもしれません。それに関しては全く知りませんが、最近読んでいるジョック・ヤングという人が書いた「排除型社会」という本の中では、1960年代以降、社会では伝統的な共同体が解体され、個人主義の社会が立ち現れる中で、バラバラな個人が孤立していく様子が描かれています。これは日本の話ではありませんが、日本でもきっと似たようなことが起きているのでしょう。(具体的な本をあげましたが、なんとなく関連付けて語れそうな内容だなぁ、と思っている程度で具体的にどう関係している、とかを僕は語れないし、ほんとうに語れるのかどうかも知りません。言いたかっただけというのもあります。語れる方がいらっしゃれば僕も知りたいので、是非語っていただければ、と思います。)

今回のこの事件は、新幹線でなければいけなかった事件ではきっとないだろうと思います。それは、近所の通りであったかもしれないし、どこかの歩行者天国であったかもしれないし、どこかの学校の中であったかもしれないし、どこか普通のおうちの中だったかもしれないし、どこでもあり得た事件だと思います。

そうであるならば、新幹線の安全保障の問題としてばかりこの問題を語ることにどれだけ意味があるでしょう。また、メディアの様子を見ているとJR東海の立場としては、手荷物管理などは乗客の利便性を損ねるので導入できない、というもののようですが、なぜJR東海はこのような姿勢をとるのか、を問うことはもしかしたら、「どのような社会的構造がこの事件を引き起こしたのか」ということを問うことと重なるかもしれません。いずれにしても、もっと別の視点から、語られるべき問題なのではないでしょうか。そんな風に感じました。