みちすがら

寄り道、近道、回り道

マルクスとジンメル―社会と自由

この一週間は本当に知的な刺激がすさまじく、昨日も書いたのに今日も書いてしまう。

 

マルクスドイツ・イデオロギー(pp.70-75)の中で、社会が拡大していく中で分業が広がり、そして分業の結果人々は特定の活動範囲に制限され隷属させられてしまう、というようなことが述べられている。言い換えると、社会が大きく広がっていけばいくほど人々は分断されてしまい、その結果人は自由を失ってしまう、というようなことが述べられている。

一方で、社会が広がり人々が分断されていくという同じような状況をジンメルは違った見方で見ており、彼はそれによって人々はより自由で個性的であることができる、と考えていた。(ジンメル「社会文化論」、「大都市と精神生活」)

マルクスの時代から今の時代まで、随分と生産諸力も高まり、分業も進んだことと思う。そのような今の社会に生きる私たちは、マルクスの時代の人々よりも自由だろうか、不自由だろうか。マルクスジンメルの両者が「自由」という言葉の下で語っていることは同一の事柄ではないとも思うが、それを自覚したうえで考えてみたい。

今日は授業でマルクスについて発表をする担当だった。
ドイツ・イデオロギーでまなんだことをざっくりと説明した後、こんな疑問を授業でクラスに訊ねてみた。

当然、と言ってしまうのはいささか気が引けるのだが、当然の結果として、クラスメイトからはほとんど何の応答もなかった。とはいえ、1名の学生と先生は反応してくれた。その学生は、僕もうすうす思っていたけれど、「自由」という言葉の下で語っている内容というか意味が違うのではないか、というようなことを述べた。その通りはその通りか、と思いくだらない問題提起をしてしまったな、と思ったのだが、先生のフォローが素晴らしかった。

自分はマルクスよりはジンメル寄りに自由を捉えていて、人間の社会の拡大とともに自由は拡大していくという捉えかたをしていたし、マルクスの論に依拠しても社会の分化によって分業が細分化した結果自由な職業を選ぶことが出来るようになり、やはり自由になるのではないか、とも思っていた。

先生は自分に対して、「確かに、分業を通して選択肢は多様化して一面的には自由は拡大するように思える。けれども、そうした選択肢の拡大をもたらす背景には何があるか。具体的には、その自由を可能にしているのはどんな人たちの存在か」と問いかけた。自分は気が付いていなかったのであるけれど、現代社会で自由を享受できる人は確かにいる、けれどもそれは非常に限られたある種の特権階級的な人々であり、その陰には極めて自由を制限される労働者たちがいる。それは先進国に商品を輸出するために低賃金で働く人々など、多くの人が含まれる。自分は、自分中心に考えるあまり、大きな視野でものを見ることができていなかったことに気づかされた。

 

そして、そこにおいて自分がクラスに投げかけた先の問いに対する一つの可能的な答えが頭に浮かんだ。

「社会の拡大とともに自由は拡大する」

「社会の拡大とともに自由は制限される」

この一見すると相反する主張は、実は決して矛盾対立ではないのではないか、そうした考えが浮かび上がり、両者はまさに弁証法的に結びついた。マルクス弁証法は本当に相性がいい。


うまく言葉にできるかわからないが、ジンメルの自由拡大というのはある社会の内部と別の社会を比較したときの「自由」の差異である。それに対して、マルクスの自由は一つの社会の内部の「自由」なのだと思う。

確かに、社会が拡大して、都市が生まれ、都市がさらに大きくなっていなかで、都市の人々は、その外側の人々に較べて自由を増すだろう。一方で、都市の外側では不自由が拡大している。その時に都市とそれ以外の双方を含んだ社会を考えたときその内部では確かに自由は制限されるようになっている。このように考えれば、マルクスジンメルは実は矛盾せずとも考えることができるのではないか、と思えるような気もする。

これは答えではなく、可能的な答えであり、いろんな思考をこの問いから膨らませられる気がする。いずれにしても、こうやって考えることはとてもたのしいことだ。

 

あとは、いくつか今日の授業で面白かったことを適当に書き留めておこうと思う。

 

まず、マルクスの「物神化」や「媒体が自立した主体になるという倒錯」に関する議論はとても面白かった。
マルクスは「媒体」というものに強い関心をもっており、それに関して論を展開している。例えば、「神」「国家」「貨幣」などこうしたものは本来、人々をつなぎとめておくための媒体に過ぎなかった。それは人々は一つにつながるために作りだしたある種の道具であり、手段であった。しかし、それらの媒体はいつの間にか単なる媒体であることをやめ、自立した主体として存在としてふるまうようになり、人々もそうした主体に特別な意味を見出し、普遍的な存在として崇拝するようになる。(こうしたことは、「神」「国家」「貨幣」のどれにもいえることだ。)この倒錯を通じた、特殊なもの(媒体に過ぎないもの)の普遍への転換を「物神化」と呼んだりする。

更に、この「特殊から普遍の転換」の論理を応用して、マルクスは「特殊の中に普遍」を見ようともする。ある特殊な構造を見つめるとき、特殊な構造を通して、その特殊な構造を規定している全体や普遍を見出す、そうした視点が可能であるということをマルクスはいう様である。(「ユダヤ人問題によせて」、に書いてあるらしい)

 

最後に一点、自分にとってとても面白いと感じた論点を紹介する。

僕はいわゆる古典と呼ばれるもののアイデアというものは現在の研究に応用することは極めて難しいことであろう、と感じていた。非常に具体的なテーマの研究は抽象的で古い古典の理論のはいる隙間を用意していないと漠然と考えていた。(もちろん、古典を読むのは好きだし、重要だと信じていたが…。)ただ、今日の議論はそんな自分の考えに少し見直しを迫った。古典は工夫次第で現代の研究にだって応用できるのだ。

それはミンツという人の書いた「甘さと権力」という本の内容に関する議論だった。ミンツは、イギリス人の「茶を飲む」という「習慣」は歴史の中で作り上げられてきたものであり、そのプロセスには「経済の構造・体制」がある、ということを述べた。(興味深いことに、習慣だけでなく「感性」も同様に経済構造によって一定程度規定されている。例えば、甘いものをおいしいと感じるようになるためには、砂糖の流通とそれを可能にする生産諸関係が必要不可欠なのだ。)一見するとなんてことない主張だと聞き流してしまいそうだけれど、実はこの主張はよく考えるととても面白い。まさに、マルクスの「唯物史観」に基づいて歴史を眺めることによって生まれた発想であるからだ。(唯物史観が「経済決定論」であると誤解されてしまうことを恐れずに言うと、)経済構造が習慣という上部構造を規定する、というこのアイデアがミンツの主張の中には見えるのである。これを知った時は本当に目から鱗というか、古典に対して今まで以上に大きな希望を抱いた瞬間だった。

 

本当に今の生活は毎日知的な刺激がものすごく、とても苦しいけれど、楽しい。
寝ても覚めてもマルクスの事があたまから離れなくなったけれど、何度読んでもわからないところがたくさんあって苦しかったけれど、嫌ではなかった。むしろ、とても楽しかった。

過酷だけど、こんな毎日が続くのは悪くない。