みちすがら

寄り道、近道、回り道

哲学と政治について、文章を書いてみた。

久しぶりに、少し長い文章を書きました。
古代ギリシャの哲学と民主制についてです。

 

ソフィストソクラテス以後の古代ギリシャは西洋哲学の起源と言える時代だ。なぜなら、社会や人間に関する哲学的な思索が始まった時代であるからである。ソフィスト以前の哲学は、自然について、その根源的な素材(What)とそのあり方(How)に思索を深めてきた。例えば、タレスは万物の根源的な素材は水であるとした(What)。一方でヘラクレイトスは、万物は流転するといった(How)。またエンペドクレスは、万物は四大元素が愛と憎しみの原理に基づいて結合分離をすることによって、形成・消滅すると述べた(What & How)。そして、彼らが自然について述べるとき、それは人間や社会を含んだ万物を意味していた。故に、そこには人間や社会をとりだして哲学の対象にするという視点はなかった。

 

一方で、ソフィストソクラテス以後の古代ギリシャの哲学者は、人間や社会を思索の対象として、哲学を始めた。人間の認知能力の限界、社会の制度の正当性、正義や自由などの社会における諸価値観といったような西洋哲学の中心的なテーマの数々がその結果として生まれた。まさに、西洋哲学の始まりであると思う。

 

人間や社会について思索を深めるきっかけを与えたものは、いったい何であったか。それは、古代ギリシャに生まれた民主制という政治体制であった。古代ギリシャには政治的な単位として、相互に独立した無数のポリスが存在していた。ポリスの一つであるアテネにおいては、はじめ王制によって統治されていたものの、ポリス防衛に市民の参加が不可欠であったことから、中産の独立自営農民や商工業者が力をつけるようになった。その結果、市民の政治的権利を高めるいくつかの改革(ソロンの改革、クレイステネスの改革など)が行われ民主制が実現されることになった。

 

アテネの民主制はポリスの内部のすべての人間に平等な権利を認めるものではなく、奴隷や女性などは政治に参加する権利を有してはいなかった。しかし、それでも政治はアテネの市民たちによって行われており、彼らは彼らが何をするのかを自分自身で決定することができた。言い換えれば、そこには内外の如何なるものの専制も存在していなかった。

 

民主制は古代ギリシャに2つの自由の概念-集団主義的自由と自己中心主義的自由-を産み出した。まず、集団としての自由が生まれた。集団として自由であるためには、時に個人としての自由は制限されなければならないこともあった。例えば、スパルタではポリス内の大多数の人間が非自由人であり、一握りの自由人によるポリスの統治は常に脅威と隣り合わせだった。そのため、スパルタでは自由人たちに共同生活を送らせ、並外れた戦闘能力と結束力を維持することが必要とされた。つまり、ここにおいては個々の自由は、集団としての自由を維持するために犠牲にされていたのだ。そして、このような集団としての自由は古代ギリシャの多くのポリスに共通して見られる自由のあり方であった。

 

集団主義的な自由が生まれた後には、個人主義的・自己中心的な自由が生まれた。この第二の自由が生まれる背景には古代ギリシャにおける民主制の発展の道筋をたどることが不可欠である。そのためまずはその道筋を辿る。王制が民主制に発展したのち、民主化はさらに深化し、人々は福祉を享受することが出来るようになった。しかしその結果、人々は国家への依存を高めてゆき、古代ギリシャの民主制において中心的な役割を担っていた独立自営農民が衰退していった。そして、最後には民主制が崩壊していく。たとえばアテネでは、デロス同盟の盟主になったことによってポリス内に莫大な富を流入させることになったが、それによって社会には民衆の放縦と怠惰が蔓延し、社会はアノミー状態に陥ってしまった。そして、集団的な規範やルールによる個人への制限は弱まり、個々人は私的自由を重視するようになった。同様に、アテネとスパルタが争ったペロポネソス戦争の時期にはアテネ内部では大きな政治体制の変化が相次ぎ、民衆に世の無常を突き付けた。人々は不安定な世の中であるからこそ、社会の規範や掟などに縛られることなく、目の前にある自分自身の喜びのために生きるべきだと考えるようになった。このようにして、自己中心的・個人主義的自由という考え方が生じることになった。

 

見てきたように古代ギリシャにおける民主制の誕生は、単なる政治体制の変化以上の意味を西欧社会において持っていた。それは、古代ギリシャの哲学者たちに人間や社会へと目を向けさせることを通して、現在まで続く西洋哲学の根源を築き上げたのである。

 

哲学史を学ぶのはとても楽しい。
僕たちが学校で学ぶ知識がどのようにして生まれてきたのか。
何によって規定されているのか。

「知識って何だろう」という問いは教育を考えるときにもとても重要なテーマだということに最近気づかされたので、もっと学んでいきたいですね。