日記:2020年12月15日
今日はあまりいい日じゃない。
両親に転職のことをあれこれ言われた。
「学生時代の就職活動で仕事のことをよく調べないからだ」
「俺たちの時代ではありえない」
「石の上にも3年だ」とか。
と思えば、
「好きなことをするためなら仕方ない」といってみたり。
「1年もやらずに転職なんて」というのが本音なのだろう。
それを時代と空気を読んで必死に訂正した結果がこのわけのわからない発言だ。
両親からしたら、投資に失敗したと思う気持ちがあるのだろう。
高等教育にさんざんお金をかけたのに全然稼げてない。
そのうえ、もっと給料の低い仕事に転職するなんて…。
リビングの隣の自分の部屋には、会話は筒抜けなのを気づいているのだろうか。
「誰がボーナスをいくらもらった」
「誰の給料が低い」
「ケンジのボーナスは低い。給料も安い。俺はいくらもらってた」とか。
自分は親の仕事を何も考えずに引き継いで、たまたまお金をある程度稼げただけなのに、よくもまぁ、こんなに言えるものだと思う。
父の稼ぎは確かにすごいけれど、それしかない。
金で人を評価して、金で人を見下す。
哀しい人生だと思う。
両親は、自分の次の仕事をお遊びとか、世迷言だと思っている。
またすぐにやめるだろう、と。
とても悔しいので、必ず結果を出してやろうと思う。
優しさと冷たさの表裏一体の関係
最近の自分は、ぼーっとしている。
いつもではない、仕事をしているとき、特にぼーっとしてしまう。
やらなければいけないことを精一杯こなしているけれど、仕事に心から向き合えない。
自分のやりたいと思うことはこれではない。
自分が本当にやりたいと思えることを仕事にできるまで、この仕事でつなぐ、そんな気持ちにどうしてもなってしまっている。
自分は、何か「作品」と呼べるようなものを生み出すことを仕事にしたい、と最近はずっと考えている。
それは、絵でも動画でも、どちらでもいい。
一番自分にとって望ましいのは、絵を仕事にすること。
だからずっと、絵の練習をしている。
現実的だと感じているのは、動画の編集技術を身に着けること。
だから、動画制作にも取り組むことにした。
そんな自分が考えるのは、どうしてもっと高校生や大学生のころに、いや、もっと前から絵の練習をずっとしてこなかったんだろうか、ということ。
自分は選択をずっと間違えてきたんだとどうしても思ってしまう。
大学選択も、もっと視野を広げて悩むべきだった。
普通の選択肢じゃないから、と自分のやりたいことを遠ざけるべきでなかった。
学歴へのこだわりもあり、大学院へも進学した。
2年間かけて、拙いけれど納得できる論文を書けたと思う。
でも、仕事を始めて思う。
今までやってきたことは今の生活にはこれっぽっちも関係ないし、関係があったとしてもごくごく些細なこと。
今までやってきたことをやっていない自分でも同じようにやれたし、もしかしたら今よりもっとうまくやれてるのかもしれないとさえ思う。
どうしても、あの時ああしていれば、と考えてしまう。
昨日、それを先輩に話した。会社のではなく、学生時代の。
先輩は言う、「ないものねだりの人生だな」と。
ぼくもそう思う。
もしかしたら、今自分がそうしていればと思う自分を生きていたとしたら、その時の僕はもしかしたら今の自分の生活をあこがれとして語っていたかもしれない。
でも、そうでないかもしれないともやっぱり思うし、どちらもただの可能性という点では同じだと思う。
ないものねだりをしても仕方がないことを、僕もわかっている。
だから、せめて、今から作れる将来を、自分の納得のいくものにしたいと思って、絵の練習や動画作成に取り組んでいる。
自分はただ、共感や同調をしてほしかっただけだった。
だから、先輩を冷たいと少し思ってしまった。
でも、それが先輩の優しさだということもわかっている。
自分がやりたいと感じていることの無謀さを理解しているし、半端に同調して、共感して、自分を調子に乗らせて、生半可にそちらに進ませることは僕を破滅させることになるからこそ、冷静な言葉をくれたのだということもわかる。
自分のことをちゃんとわかっているからこそ、そう伝えてくれているんだと思う。
やはり、こういう自分の未来像は、なりたい、というレベルで話をするのはあまりいいことはない。同じような集団であればお互いに加熱しあえるかもしれないが、そうでない場所では言わないほうがいい。
聞く側は損しかしないし、自分も大体損をする。
合計値がマイナスになるゼロサムですらないやり取りになる。
こういうことは、やりたい、というレベルではなく、やった、という時点で初めて口に出せるものなんだと思う。
今度はちゃんと、「こんなことをすることになりました」という形で報告して、「そうなんだ、がんばれよ」と言ってもらえるようにしたい。
そんなことを思った。
今の気持ちを忘れてはいけない気がする、今はそんな気持ちです。
昨日、自分のこれからについて考えた。
今のままの場所で今のまま生きていていいのだろうか、今のまま生きたこの先に自分はどうなるのか。
自分にそう思わせたのは、にじさんじ甲子園という企画だった。
その企画を見終えた自分の中にあったのは、お祭りが終わった後の寂しさと似ているけれど、少し違った寂しさだった。
言語化しようとするとそれは、「どうして自分はこちら側にいるんだろうか」という感覚だった。
企画を運営していた側の人たちが、充実感を中でお互いをたたえあう姿に涙が出そうになったのは、良い時間を過ごせたことの感動からではなく、自分がみていることしかできないことの悔しさからだった。
自分がどんな人間なのか、それを言葉で規定するのは嫌いだった。
自分はこれまでそれを避けてきた。
その理由を明確に言葉にすることは難しいけれど、自分はこういう人間だという周りの人たちがどこか嘘くさく見えたからだと思う。
自分には彼らの姿が、どこか焦りと強迫を帯びた、自己催眠に必死になっているように見えたし、彼らが語る自分像がどこかから借りてきたものに見えていたからだ。
自分はそれをしてこない代わりに、自分はこうではない、という形で自分を規定してきたと思う。
その結果、自分の中には何もない、そんな風に感じてしまっている。
だから昨日、自分の将来について考えた。
自分は、人を楽しませることが好きなんだと思う。
今振り返ると恥ずかしいけれど、小学生のころ、恥ずかしげもなく、よく周りの人に対して意識的に笑うようにしていたことを、これを考えるときいつも思い出す。
仕事も、誰かを楽しませることがしたいし、それができないのなら、それを支える仕事がしたい。
誰かに楽しませてもらう側にいるだけの自分はすごく嫌だと感じている。
自分にどんな形で、そのなりたい自分に近づくことができるのか、それを考えた時、今の自分が一番やりたいことは、絵を描くことだと思った。自分の描くイラストで人を楽しませたい。
だから、絵を描く練習を本気でやろうと決めて、今日もデッサンの練習に取り組んだ。
でも、描けたものはあまりにも稚拙で、下手で、がっかりした。
こんなものも正確に描くことができないのか、と悲しくなった。
自分がなりたいものは、あまりにも遠くにあり、あきらめてしまいそうになる。
文章の着地点を見失ってしまったけれど、やっぱりあきらめたくない。
無様な自分が情けなくて、目も当てられないと思うけれど、まずは無様な自分のことをちゃんと見ることから始めたい。
かっこ悪い自分のことを、キチンとかっこ悪いと認めて、そのつらさに耐えながら、進んでいかなきゃいけないと思う。
今やろうと思っていることは、携帯のメモに書いてある。
そこに書いたことは全部ちゃんとやる。
やると言ったらやる、そういう人になる。
やれそうなことしかやるといわない人ではなくて、無謀なことでもやると言ったらやる人でありたい。
今の仕事には、あまり熱くなりたくない、お金がもらえるからやっている、自分はそれでいいと思っている。バイトと変わらないと思っている。
その分、自分がやりたいことに時間を使えるように工夫するほうがいい。
僕はそう思う。
「別の人の彼女になったんだろうな」 wacci
1年前に提出された楽曲ではあるけれど、おそらくまだ多くの人に聴かれているらしいwacciというグループの「別の人の彼女になったよ」という歌がある。
YouTubeでは色々な人がこの曲をカバーしていて、僕がこの曲を知ったきっかけになったのも、そうした動画の一つを見たことがきっかけだ。
なんで「別の人の彼女になったよ」という歌を女性ではなく男性が歌っているんだろうかと感じつつも、気に入ったので昨日から何回もリピートして聴いていた。
ただ、回数を重ねて聴いていると歌詩のいくつかの点に対して違和感を持つようになった。例えば、以下のような点がなんとなく気になるようになっていた。
「怒鳴り合いはおろか、口喧嘩もなくて。むしろ怒るところがどこにもない。」
「夢や希望とかを語ることを嫌ってちゃんと現実を見つめていて、正しいことしか言わない。」
この歌の中では基本的に「別の人の彼女になった」という人によって、「新しく付き合い始めた男性についていい人なんだけど、というかむしろ完璧な人なんだけど何か物足りない、例えばこういうところとか…」というような形でその新しい人の描写が繰り返されている。上に並べた箇所も「新しい人」についての描写である。
この曲の歌詞に自分が抱いた違和感はこの「新しい人」の描かれ方にある。引用した箇所から明らかなように、この「新しい人」というのは完全無欠の完璧人間であるようなのだが、だからこそ「そんな人間いるか?」とどうしても思ってしまう。つまり、現実感が皆無なのだ。そのため、この曲を女性目線で書かれたものとして聴くとなんとなく宙に浮いてしまう。
ただ、これが女性目線ではなく男性の目線から書かれた曲であると聴くと納得できる。どういうことかというと、この曲はたぶん彼女に振られた男性が自分に別れを告げた女性の現在を空想しながら書いた曲なんだろうということである。
この男性は多分、別れを告げられたことがとても悔しいしととても悲しいんだけれど、相手の女性を責めたり、相手の女性の現在が不幸であったらいいのにと願うこともしなくない。だから、彼女も幸せでだけど自分も救われるようなストーリーを考えようとしたのではないだろうか。「彼女はきっと今とても幸せなはずだけれど、どこかで自分のことが良かったと思ってくれていたら嬉しいな。」そんな気持ちが込められているのではないだろうか。そう考えると、とても納得がいく。
この曲について、作詞作曲を担当した橋口洋平さんは以下のように記している。
「"好き"と"幸せ"は必ずしもイコールではなくて でも両方とても大切で。 忘れられない恋愛より 自分のための恋愛を選んだ人の 少しだけ後ろを振り返る歌です。 前の彼氏はこういう人。 今の彼氏はこういう人。 書いたのはそれだけ。 最後は少し気持ちを吐露してますが、 このシチュエーションの奥にある心理描写は あなたに委ねます。 wacci初の、女性目線で描いた一曲。 是非聞いてみてください。」
橋口さん曰く、この曲は女性目線らしいが、すでに述べたように女性目線としてのこの曲の試みは失敗に終わっていると僕は思う。ただ、それはこの曲が不出来であるということではない。男性の妄想としてのこの曲は、僕個人としては好きだし、この曲を書く男性の人物像にはどこか優しさがあって好感が持てる。
この男性の妄想が少しずつ自分を慰めるための今の形から、相手の女性が本当に幸せであることを願える形に変わり、男性自身も前に進めるようになる日が早く来ればいい、そんなふうに思う。
このごろ
『あんまり無理しないで』
『体に気をつけて』
ほんとうは自分が言ってもらいたい
『お前もな』
ただそう言ってもらいたくて、誰かに声かける
そんな遠回りの自分のメッセージをみるとなんだか虚しくて
目のまわりが熱くなる
そんな不器用なやり方でしか誰かに助けを求められない
散らかった部屋を片付けた
思っていたよりも広い部屋だったと気づく
広い空間にちっぽけな自分
この空白が寂しい
この苦しみを終わらせるために
死んでしまうことだけが方法じゃないのは理解してる
だけど、それを考えてしまう
別に死にたいわけじゃない
生きていることをやめたいだけ
自分を終わらせたいだけ
『会社は辞表、学校は退学届。
人生はどこに何を出せばやめられますか』
少し前にくだらないと思った誰かの文章が今は少しだけわかる気がした
「JOKER」という映画(見たわけではない)
僕はジョーカーを見たわけではないのですけれど、犯罪行為について社会的な要因に目を配りつつ描くというのは基本的に望ましいことだと思っています。なぜなら、犯罪に対して、あいつは根っこが悪人だから悪いことをしてしまうんだというような本質主義的な理解がなされるよりは遥かにいいと思うからです。誰もそんな風には考えていないと思う人もいるかもしれませんが、僕が日本で生きている感覚として、例えば前科がある人に対する視線がとても冷たいだとか、犯罪に対する本質主義的な見方というのは結構見られるような気がします。ただ、どんな犯罪を犯しても法的な罰さえ受ければその罪をなかったことにしてもいいのかと言われると、そうでもないような気がするので、僕としてはその中間に自分がいるのだと思っています。話が逸れてしまいましたが、とにかくここで僕が言いたいことは、ジョーカーという映画における犯罪行為の描き方を僕がどちらかといえば肯定的に評価しているということです。
なので、そうした表現の仕方に対する批判はとても興味深いと思いました。具体的には、犯罪行為についてその社会的な背景を強調することで犯罪行為を正当化しているのではないか、という批判です。その他にも、そうした批判に人種やジェンダーを絡めた批評も見かけました。僕は人種もジェンダーも勉強不足なのでよくわからなかったのが正直なところなんですが、この批判について僕の理解をまとめてみます。まず、アメリカの社会でもっとも支配的な集団が白人の男性であり、彼らは社会のいろんな場面で強い存在として描かれてきました。彼らが強い存在であるというのはもはや社会の規範の一角を成しています。しかしながら、彼らの中にも社会的な弱者というのは当然いるわけです。そうした社会的に弱い立場の白人男性の中には、本当は強いはずの俺たちがなぜこんなに弱い立場でいなければいけないんだと納得できない人がいます。こんなはずじゃない、こんなのはおかしいと思う人がいるわけです。そして、規範の上では強い存在であるはずなのに、現実においては極めて弱い存在である、という状況は当人にとっては大きなストレスであり、近年のアメリカ社会ではこうしたストレスが、大量殺人などの深刻な事件として現れています。先ほど触れたジェンダーや人種と絡めた批評の中では、こうした社会状況下で、社会的に弱い立場に置かれた白人男性という彼らが自身を投影しやすい対象を主人公に据えて、その主人公に大量殺人を行わせ、その上、その犯罪行為の責任を社会に押し付けて個人を免責する映画であるとして、ジョーカーを批判している訳です。なるほど、もしもジョーカーがそんな映画であれば、「オレもジョーカーのようにやっていいんだ」と勘違いする白人男性がもっと増えてしまうのかもしれませんし、そうなってしまえばそれは大変なことですね。
しかし、この批評にはいくつか問題があります。まず、根本的な問題は「犯罪行為についてその社会的な背景を強調することで犯罪行為を正当化している」という評価がジョーカーに当てはまるのか、という点です。たしかに、この文章の冒頭で述べたようにジョーカーでは、犯罪行為について背景にある社会的な要因に目を配りながら描こうとしています。しかし、社会的な要因に目を配ることと、社会のせいにすることは似ているようで別のことです。なるほど、ジョーカーの犯罪行為の背景には社会的な要因があったことでしょう。しかし、社会的な要因は行動を左右する一つの要因でしかありません。例えば、社会的に不利な立場に置かれている人は皆、ジョーカーのような行動を選ぶでしょうか。つまり、最悪の選択は彼自身によって行われたのであり、その責任は彼自身にあるのです。このことを理解すれば、社会的な背景に目を向けていることを理由に、この映画は犯罪の責任を社会に押し付けることで個人を免責している、という主張がおかしいことがわかるでしょう。そして、ジェンダーや人種に絡めた批評は基本的には、ジョーカーが個人を免責しているという点に根本的には依存しているため、自動的におかしな批判であることになります。(ジョーカーは確かに、社会的に弱者の立場に置かれた白人男性に大量殺人を行わせている映画であるものの、それを仕方がない行為としては描いていないことになるのですから。)この、社会的な要因に着目することと社会に帰責することの違いを看過してしまい、その結果ジョーカーを見て個人を免責していると感じる人が一定数出てくるのは仕方がないことです。ただし、それはそう感じた側の誤りであり、製作者側を批判するのはお門違いというものでしょう。
では、100歩譲ってジョーカーが社会的弱者によって行われる犯罪行為を仕方がないことであるとして正当化する映画であるとした場合はどうでしょうか。確かにこの場合は、社会的に弱い立場に置かれていることに大きなストレスを抱えている白人男性たちの背中を押すことになるのかもしれません。ただこの場合、主人公が白人であろうとなかろうと、男性であろうとなかろうと、ストレスを抱える彼らにこの映画が及ぼす影響というのはさほど変わらないのではないでしょうか。たとえば有色人種の男性が主人公であったとしても、弱い立場に置かれた男性が犯罪行為を行うのは仕方がないんだというメッセージを発することに変わりはなく、ストレスを抱える彼らは背中を押されるでしょう。これは主人公が有色人種の女性であってもそれほど大きくは変わらず、社会的な弱者は犯罪行為を行ってもそれは仕方がないんだ、と彼らには受け取られるでしょう。もちろん、白人の男性が主人公である場合に比べたら幾分か背中を押される白人男性は少ないのかもしれませんが、それほど大きな違いがあるように僕にはあまり思えません。それどころか、白人男性以外を主人公に据えるということは、さほどメリットがないように思えるだけではなく、場合によってはデメリットさえ生じるのではないかとさえ僕は思います。というのも、もしもこの映画の主人公を有色人種の女性にした場合、有色人種や女性が社会的弱者として描かれることになり、有色人種や女性に対するステレオタイプを再生産することになるのではないか、と思うからです。さて、このように改めて整理してみると、たとえジョーカーが犯罪行為を社会のせいにして個人を免責する作品であると仮定した場合でも、ジェンダーや人種に着目した批評はそれほど芯を食った批評ではないのでは、と僕は思ってしまいます。
ここまで、ジョーカーという映画に対して向けられている批判の紹介と、そうした批判に対する再批判を行なってきました。僕はこの映画を自分では見ていませんし、アメコミにも興味がないので今後見る予定もありませんが、よくも悪くも話題にはなっているようなので、興味のある方は見てみるのも良いのではないでしょうか。
「天気の子」スペシャル予報は、なぜあんなにも泣けるのか。
「ありがとう。ありがとう。ごめんね。ありがとう。さよなら。」
人が純粋に誰かを想うということの美しさと、その結末にある幸せと、同じくらいの悲しみや苦しみ。
無防備なほどにさらけ出される登場人物の心。心と心がぶつかり合うその場に引きずり込まれて、いつのまにか自分の心もむき出しになる。
その時に浮かんでくるのは、混じり気のない純粋な時間。
「まるでこの世界に自分だけしかいないような」そんな心。
その心の美しさを思い出すと同時に、その心がすでに過去のものになってしまっていることの切なさが押し寄せてくる。
感動と喪失感の合間で揺れる心に、最後の言葉が響く。
「約束の場所をなくしたまま、それでも僕たちは生き始める。」
僕たちはきっと、この不完全ないびつな心のまま生きていかなければいけない。そして、その歪さはきっと、ダヴィンチの未完成の絵画のような美しさを持っているのだと思う。